在宅診療医 内田賢一 奮闘記

三浦半島の根本である逗子・葉山及び横須賀、神奈川で在宅診療行っています。長らく血管障害を中心として脳外科医として働いてきましたが、自分のキャリア後半戦は自分の大好きな湘南の地の人々が本当に自宅で安心して医療受け過ごせるお手伝いをできたらと考えております。自身の医療への思いや分かりにくい医学の話を分かりやすく科学的根拠に基づき解説して参ります。

認知症治療の功罪~アリセプトの誕生秘話

認知症治療薬として現在日本で使用可能な薬は4種類ありますが、その先駆けとなった薬は日本発の薬であるアリセプトです。アリセプトは杉本八郎博士が開発し、彼はこの薬の開発で、薬の世界のノーベル賞と言われる英国ガリアン賞・特別賞や恩賜発明賞などを受賞しており、まさに日本を代表する世界的化学者です。そしてアリセプトの誕生のきっかけには、ある強い思いがありました。江戸川区9人兄弟の8番目として生まれ、八郎と名付けられたそうです。実家は料理屋さんでしたが、戦火で焼けてしまいました。戦後、杉本博士の父親は、様々な商売に手を出しましたが、どれもうまくいかず、ついに日雇い労働者となってしまいます。父親は、ヤケ酒によって給料を全部使い果すような生活になり、その貧しさは、傘を子どもの人数分買えないほどだったそうです。杉本博士は母親と荒川でしじみを取って売るなどして、生活を切り詰めていきました。本当は小説家になりたかった杉本博士ですが、「高校を出たらすぐに働けるようになって欲しい」という母親の願いを知り、早く一人前になって母親に親孝行をしたいと考え、工業高校へ進みます。そこで数学や化学などを猛勉強し、その苦学のおかげで製薬企業に就職することができました。ところが、製薬企業は大学卒業者ばかりが集まるエリート集団でした。研究補助ばかりさせられる日々が続きます。杉本博士は、きちんと大学を出て、自分自身の手で創薬研究をいつか遂行したいと思い、大学の夜間部へ働きながら通うことにしました。その熱意を会社も認め、残業をなしにするといったように配慮してくれたそうです。大学で有機化学の基礎力や研究遂行能力を本格的に身につけていった杉本博士は、会社でも独自の研究を行うことができるようになりました。そして、一生懸命に打ち込んでいった結果、30歳代になった頃には研究員として高い評価を受けるようになったそうです。しかし、そうした矢先に突然母親が脳の病で倒れてしまい、幸い一命は取り留めたものの、後遺症として認知症になってしまったそうです。杉本博士がお見舞いに行った際に、
母「あんたさん、どなたですか?」
杉本博士「お母さん、息子の八郎ですよ。」
母「そうですか、私にも八郎っていう息子がいるんです、あなたと同じ名前ね。」
という会話になったそうです。杉本博士は非常にショックを受け、思わず涙を流しました。この涙とともに「認知症患者を救いたい」という気持ちがアリセプト開発のきかっけとなったそうです。在宅医療 | さくら在宅クリニック | 逗子市 (shounan-zaitaku.com)

写真は逗子在住山内明徳様撮影